その答えを探すために

生きるのです。

人間はなぜ生きているのでしょうか。

考えはじめますと、きりがありません。

いのちを存続(そんぞく)させつないでいこうとする、

その欲望(よくぼう)自体が(なや)みの種となってしまう。

人間は、何とも厄介(やっかい)な生き物です。

人間が生きること」のすべての苦しみは、

この問いに始まっていると言っても

過言(かごん)ではないでしょう。

ではこの問いに答えはあるのでしょうか。

簡単(かんたん)に言えば、

ひと言で答えられるような答えは

見つからないと思います。

人間はその答えを探しに

生まれてきたとしか、

言いようがないのです。

しかし一朝一夕(いっちょういっせき)に答えが出なくとも、

なぜ生きるのかと悩み、

生きる目的を考える力こそが、

人間の素晴(すば)らしさでありましょう。

現在(げんざい)苦難(くなん)のうちに歩まれている方は、

「そんな言葉では救われない!」

と思われるかもしれません。

しかし答えを急がず、

「生きる」ことの意味をともに

考えてまいりましょう。

本願寺第24代ご門主大谷光真著

『朝には紅顔ありて』より

光明寺について

about komyoji

当寺院について

浄土真宗本願寺派 光明寺 福山市旭町

浄土真宗本願寺派のお寺です。

「浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅう ほんがんじは)」とは、鎌倉中期に浄土真宗を開いた親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする仏教宗派です。本山は、京都市下京区の堀川七条にある「龍谷山(りゅうこくざん)本願寺」で、「西本願寺」とも呼ばれます。

教えの特徴は、「絶対に救われようのない私」が「必ず救われていく」という、一見矛盾した事が同時に成り立っていくことです。それを可能にしているのが「他力本願(たりきほんがん)」です。「他力」とは、他人の力ではなく「阿弥陀仏のはたらき」のことです。また、「救われる」とは必ずしも死後の話ではありません。どのような状況であろうと、今、この人生に納得し、阿弥陀仏という絶対的な味方を得て安心して生きていくということです。


光明寺の特色

光明寺は今からおよそ500年前に開基された寺で、400年前の福山城築城の折に福山藩の命を受け、元の大門町津之下から福山城下へと寺基を移転しました。昭和20年の福山空襲では奇跡的に延焼を免れました。現在の本堂は2002(平成14)年、庫裏と会館は1987(昭和62)年に建てられたものです。

浄土真宗のお寺は伝統的に子どもを対象とした活動を行っているところが多く、光明寺でも土曜学校、初参式、サマースクール、ボーイスカウトなど、幼少から高校・大学生までの子どもたちが週末を中心に出入りしています。阿弥陀仏のはたらきの目当て(対象)には年齢、性別や性自認、国籍などの分け隔てが一切無いように、阿弥陀仏をご本尊とするこのお寺は、すべての人々に開かれたお寺です。

光明寺だより

うんこと煩悩の共通点

半分食べて、半分飼う

浄土真宗本願寺派 光明寺

〒720-0031 広島県福山市旭町4-19
TEL:084-923-3942

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